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大いなる田舎

長谷川泰子

 

 ある人のことを少しでも深く理解しようと思うなら、その人がどういったところでどう育ってきたのかを知ることが必要になる。だからこそ相談に来られた方には生育歴を詳しく聞くし、その人が暮らしてきた場所・地域についても聞く。土地の文化や風土は、その人自身の血肉となって身についているところがあると思う。

 では、名古屋や愛知、あるいは尾張や三河という言い方もできるが、ここはどういうところなのだろうか。改めて考えてみる。

 インターネットで調べてみると、愛知県の人口は、東京、神奈川、大阪についで第4位となっている。市町村の人口で見ると、名古屋市は横浜、大阪についで第3位につけている。これだけ人が住んでいて、愛知県には大きな企業もいろいろあるのに、かつて新幹線ののぞみが運転を開始したときには“名古屋飛ばし”をされ、話題になった。コンサートや芝居の公演なども名古屋は飛ばされてしまうことがある。本当かどうかは分からないが、クラッシックのコンサートやオペラなど、名古屋で公演があっても「東京のほうが演奏が良い」ということで、名古屋では聞かずにわざわざ東京まで足を運ぶ人がいる。住んでいる人自ら“名古屋飛ばし”をするのだ。

 近年は「名古屋めし」が話題となって、この地方がクローズアップされることも多いけれど、以前はテレビなどで名古屋がちょっとしたからかいの対象となることがあった。しかし実際、友人などが遊びに来てくれても、連れて行くところがあまりない。熱田神宮、名古屋城、あとはひつまぶしを食べに行くぐらいだろうか。このあたりは観光地でわざわざ訪れるところというより、住む場所、生活するところなのだと思う。

 名古屋のことを「大いなる田舎」とも言うらしいが、名古屋だけでなく、この地域全体がそういうところではないかと思うことがある。私自身は三河地方の生まれ・育ちであるが、私の住んでいる地域には約10年ぐらい前まで、“講”という組織が存在していた。手元にある電子辞書、ブリタニカ国際大百科事典で講を調べてみると「本来は仏教の講話を聞くために集まる人々の集会を意味したが、やがて信仰とは無関係の同志的結社をも意味し、地縁的な組と並んで、村落社会や都市の伝統社会における結合の単位として機能するようになった」とある。「宗教的な講」「経済的な講」があり、宗教的なものの中には村の観音堂や地蔵堂に特定の年齢集団が集まるような講もあり、そこには「若者組」と呼ばれるようなものもあって、それが後に「青年団」のような組織に発展していったのだと思う。経済的な講というのは、毎回寄り合いの時にお金を集め、ある程度おがたまったところでとそれを講のメンバーの1人がまとめてもらう、その繰り返しで全員がまとまったお金を順番にもらえるシステムである。「この講が発達して相互銀行になった」と事典には書かれている。

 私の住んでいるところに残っていたのはお寺の檀家の女性だけによる宗教的な講で、月に1回程度の集まりがあり、そこではお寺の住職の講話を聞き、その後はお茶を飲みながらの世間話をずっとしていたようだ。参加していたのが高齢の人ばかりで存続が難しくなり、ついになくなったと聞いた。岐阜県出身の知人に聞いたところ、彼女の実家あたりでは今でも講があると言う。沖縄では同じような仕組みの「もあい」と呼ばれるものがあるそうで、まだこの仕組みが残っているよところもあるようだが、しかし人口15万人を超える市のなかについ最近まで講が残り機能していたのは驚くべきことのようにも思う。

 以前、三河地方のある大きな市に住んでいた知人に聞いた話だが、知人が住んでいる地区には「若妻会」なる組織があったという。その地区に代々住んでいる家の長男の嫁で、親(舅・姑)と同居している人だけが入れる組織なのだそうだ。実際に何をしているのかは不明だが、おそらくは講のようなものだろう。知人のお母さんは、50代半ばで家を建て替えた時に、近所だけどずっと別住まいであった義理の両親と同居することになった。そこでやっとこの「若妻会」に入れてもらえたのだという。知人も60歳手前で「若妻会」なんてと笑っていたが、ルールは厳格に運用されていたようだ。30年ぐらい前、平成の時代の話である。

 いろいろと話を聞いていると、この地方は大きな市町であっても、昔から続く古い文化が今も地域に染み混んでいると感じられることがある。他から引っ越してきた人で、「ムラ社会」が残っていることにびっくりした、という人もいた。はじめは分からないが、住み続けているとムラ社会的なところが見えてくるようだ。地元志向が強いところで、結婚しても実家の敷地内にもう一軒家を建てて新婚夫婦が住むようなことが今でも珍しくはなく、古い文化が残りやすいのかもしれない。

 名古屋近郊、小牧市にある田縣神社は「天下の奇祭」と呼ばれる春の祭りで有名である。詳しくはインターネットなどで見てもらえれば分かるが、要は豊穣を祈願する祭りだ。昔、おそらく原始的な社会においては、こういった類のお祭りは「奇祭」でも何でもなく、当たり前にあったのではないか。たとえば長野県の諏訪で行われる御柱祭りも同じ系統の春の祭りだろう。以前、諏訪市の博物館を訪れた時には、世界中にある御柱祭りと同じような祭りの紹介があった。また、古代ギリシャではディオニソスの祭りというものがあったが、これが田縣神社の祭りととても似ている。田縣神社の祭りがいつから始まったものかは知らないが、古代ギリシャでやっていたような原始的な祭りが今でも同じような形で続いているということになる。古い時代のプリミティブな発想が、今も窒息することなく生きている土壌があるからこそ続いてきたということなのかも知れない。

 

 この地方はそういった古いもの、しかもいわゆる「伝統文化」といったものではなく、もっと土着の、生活に密着したものが残っている、残りやすいところなのかもしれない。「大いなる田舎」といわれるのももっともなこことなのだろう。地元志向の強さはこういった土地柄も関係しているのではないか。生活に密着したものだからこそあまり意識することはないが、こういうところは自分自身の一部でもあるのだろう。もっと意識的に考えてみてもいいのかもしれないと考えた。

 

 

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