西村臨床心理学 自分について

 「西村臨床心理学 1-3 自分について」というタイトルで保存されていた文章です。文章内には7/1の日付がありますが、最終更新日は2019年7月6日です。

 

 

2019/07/01

西村臨床心理学 第1章の3 自分について

 

 自分という自分らしい、私というと少し改まる感じ、俺というとくだける。日本語には主体を表す言葉が沢山あって、外国人は戸惑うだろう。日本人はそれだけ対人状況に気を配っているのだ。

 私が精神分析を学び始めたころ「自我」という言葉が出てきて理解に苦しんだ。自我というと仏教でいう我とも違うし、ボールみたいなものを連想していた。意識や無意識や昔の記憶などいっぱい詰まったものを考えていた。ある時土居健夫の『精神分析』を読んでいると、自我とは自分のことであると書いてあって、あゝそうかと納得した。かなり長い間その理解で通してきたが、ある時、自分には師匠のような努力の才能が備わっていないと思った。師匠は毎日朝6時から8時まで机に向かい原稿を書いておられた。朝の祈りのように毎朝原稿を書いていたら文化功労章を頂くことになったと受賞祝賀会のあいさつで述べられた。師匠は努力することが出来た人であった。師匠は40歳前後に原稿書きの時間をいつにするかいろいろな人に尋ねておられた。ある年、学生を引き連れてマニラに学術調査に行かれた。学生は8時半過ぎにしか朝食に降りて来ない。そこで師匠は請け負った翻訳の仕事を朝の6時から8時の間に一仕事やり終えて、何食わぬ顔でみんなと食事をするのが愉快であると言われた。こうして原稿書きの習慣が出来上がった。私にはそういう才能が備わっていないと思った。努力できないのではなく才能が生まれつき備わっていないことがわかり、思いついたときに書くようにしたらわりに書けるようになった。

 そう考えたときから人の知能、性格、運動能力、社交性‥等すべては先天的に与えられたものであったり、育ちあがってくる過程で出来たりできなかったりしたもので、すべては避けることが出来なかったもの、それはすべて自分の責任ではないとお考えるようになった。

 そうなると責任ある自分は何か、自分はどんな存在なのか考えたとき、思い浮かんだものは座標の原点であった。座標の原点、それは点である。点とは何か、位置があって大きさのないものである。昔イメージしたボールではない。単なる点である。位置があって大きさにないものというと、位置とは何ですか、大きさとは何ですかと説明しなければならない。だから簡単には、同一平面上にある異なる2直線の交わるとところという操作的な定義になる。2次元ではあまりに平板であるから3次元の座標軸の原点をイメージすることにしている。実際は心はもっと複雑であるから多次元の座標を考えるべきであるが、頭の弱い私にはそれは不可能だから、それは数学者に任せたいと思う。とにかく三次元の座標軸の原点、それだけが私の一でありいのちの中心であり生きているたましいの印であると考えた。

 自分に与えれた知能、言語能力、運動能力、性格、責任能力‥等すべて原点から伸びている座標軸の上に位置づけられるもので、私はそれらのものをうまく使いながら生きていくと考えるようになった。その方が生きるのに楽である。

 

 

 

次へ   前へ