長谷川泰子
桂歌丸さんの落語をたった一回だが聞きに行ったことがある。亡くなる少し前のことで、おそらく結果的に名古屋で聞ける最後の機会だったのではないか。普段から落語をよく聞いているというわけではないが、歌丸さんが体調が悪化していつ何があってもおかしくないような状況の中でも落語の会を行っていた頃で、新聞広告で落語会が名古屋であると知り、何が何でも見ておきたいと思った。
5人ぐらいの噺家さんと一緒の落語の会で、歌丸さんの出番はもちろん最後である。すでに日常的に車椅子を使っていた状態で、自分で歩いて移動はできないとのことだった。いったん緞帳を下ろし、他の人に抱えてもらって座布団に座ったところで再度緞帳を上げる、という登場の仕方だった。歌丸さんの前の出番だった円楽さんが、緞帳を下ろしてからの登場について笑いを交えながら説明してくれ、お客さんも必要以上に重たくならず、最後まで落語を楽しむ雰囲気が保たれていた。歌丸さんはもともと小柄な人だけど、遠目にもずいぶんとやせてさらに小柄になっているのははっきりと分かった。
演目はいわゆる艶話、つまり男女の性的な話だった。おそらくテレビでは放映できないようなジャンルだろう。死を目前にしてこういう演目をやるのかととてもびっくりしたが、やせ細った身体で艶話を語る歌丸さんを見て、かっこいい、と思った。生きることをどう考えるのか、歌丸さんなりの姿勢・人生哲学のようなものが伝わってくる感じもした。
やはり自分も死ぬまで仕事がしたいと思う。私の仕事は幸いなことに定年もなく、むしろ年をとれば取っただけ信用度が増すところがあるようだ。実際は、どんなにたくさんの人に会って経験を積んでも、相談に来られた人との出会い・話し合いはいつも新しいもので、毎回一から作り上げることは変わりない。同じ話・同じ悩みはひとつもないのだ。もうこの仕事を始めて25年は過ぎ、スーパービジョンなども引き受けているけれど、それでも今も自分は修行の身だという思いは抜けない。同じ仕事をしている学生時代の友人に聞いてみると、やはり同じような感覚を持っていると言う。こころに向き合う仕事で、勉強すればすっかり分かってしまうというものでもない。やればやるほど発見があり、ゴールは見えない。ゴールがあるとも思えない。
歌丸さんのように最後までやり続ける姿を見られたことは、一つの財産だ。あんなふうに最後の最後までやり続けていいんだと思える。死ぬまでやり続けたい。私にとっての大きな目標だ。