何もしないこと

 「何もしないこと」というタイトルで保存されていた文章です。最終更新日は2009年6月27日です。山本七平も夏目漱石も西村先生の愛読していた作家です。

 

 

 

 

 

何もしないこと―中空構造の力学

 西村 洲衞男

 

 

 「何もしないことに全力をつくす」とは河合隼雄先生定年退官講義のときの言葉である。クライエントの意識と無意識を含めた全体が当面する問題に対して何らかの答えを出してくる。その答えはほとんどカウンセラーの予想を超えたものになる。クライエントの内面にある可能性は自分たちカウンセラーが考えている以上の良い答えを出してくるという信念をもって居られた。その言葉は遠藤周作とのNHKでの対談の中にも収録されていたので、心理臨床家以外の人にも注目される考えなのであろう。クライエントの内面は素晴らしい答えをまとめあげてくるから出来るだけ何もしないのだということである。

 カウンセラーがクライエントに対して何もせず、治そうとしないとどうなるのかそのダイナミックスについては河合隼雄先生は何も書いていない。

 何もしない、つまり無為から、老子の「無為にして化す」が連想される。為政者が自分の内面を治め無為にしていると民自ずから治まるということである。為政者が何もしないで自分を治めていると社会も治まるという。ユングが紹介した道教のレインメーカー(雨乞い祈祷師)の話も同様である。雨乞いの祈祷師が干ばつした村に呼ばれ、そこに違和感を感じたので祈祷師は自分を整えた。そして外では雨が降り自然界も調和した。為政者と社会、祈祷師と自然、その二つがどのようにつながっているのか、その心理的ダイナミックスはわからない。少なくともカウンセリングにおけるカウンセラーとクライエントととの関係では、緊密な情緒的な関係が生きているのでカウンセラーの内面の心的活動はクライエントに何らかの形で通じ、カウンセラーがクライエントの話を聞いて一所懸命考えるようにクライエントも考え、何かを生み出していこうと努力するのではなかろうか。そこに結果が生じるのであろう。

 中心に居る人が無であるコンステレーション(布置)のダイナミックスについて心理分析を行ったのは山本七平である。

 山本は夏目漱石の小説『こころ』を分析し、「虚のエネルギー」が絶大な威力を持っていること明らかにし、その虚のエネルギーが引き起こす抗しがたい動きが個人的な関係はおろか、国の歴史をも動かすことを日本史と比較対照して論証している。

 漱石の『こころ』は登場人物が先生とか、奥さん、お嬢さん、友人Kなどで個人名になっていないところが特徴的であることを指摘し、このコンステレーションが普遍的であることを暗示している。物語は結婚適齢期のお嬢さんと、お嬢さんをめぐる二人の男性の物語である。

 この物語でお嬢さんは、美しい人で、結婚適齢期にあるが、どんな人と結婚したいという意志はなく、無欲で、二人の男性と分け隔てなく付き合う、言わば、人間関係における無菌状態の人である。この無欲、無菌状態の人は虚のエネルギーを持っているのである。美人で無欲で無菌状態の人は多くの男性の憧れの的になる。お嬢さんをめぐって二人の男性の情念は激しく燃え上がり、先生の結婚の意思表示によって友人Kは自ら命を絶ち、先生はお嬢さんと結婚する。しかし、お嬢さんと結婚した先生も幸せになれず、明治と共に自殺してしまうとい悲劇が起こる。無欲で無菌状態の美人をめぐって恋愛感情は渦を巻く。また、無欲無心の清廉潔白なハンサムな男性をめぐって女性の恋愛感情は渦を巻くであろうことは誰しもわかることである。

 中心にある人が無欲無菌状態の虚のエネルギーを持っているコンステレーションの一つが天皇制であると山本七平は考えていた。

 徴兵制によって軍隊に入り、フィリピンで戦い、幸いにも生き残った山本七平は、自分を死の淵に追い込んだ日本の政治、軍部やマスコミの動きを、自らは何もしない天皇の虚的存在と関連させて考えた。その動きの中に漱石の『こころ』のなかに発見したダイナミックスが同様に生じていたことを発見している。また、同様のダイナミックスを日本の歴史のさまざまな局面に見出し、私たち日本人が虚のエネルギーに巻き込まれやすいことを指摘している。

 このような観点から見ると、私たちは河合隼雄先生という無欲無菌の、できるだけ何もしないという態度の引き起こす渦の中に巻き込まれていたのでないかと思えてくる。

 先生はご自身は臨床心理士という国家資格を作りたいと考えられ、自ら臨床心理士会の会長を務められ、関係機関との交渉に当たられたので、無欲どころかものすごく意欲的に仕事された。私たちから見ると無欲に見えないが、先生ご自身はみんな一人一人臨床心理士の国家資格が欲しいなら自分でもっと努力すべきだというのが持論であった。先生は臨床心理士の資格よりも資格の中身、みんなの心理臨床家としての資質の向上を常に訴えておられたのではなかろうか。みんなの資質が向上すれば資格は自ずからついていくるという考えであった。人間関係でも常に誰とでも良い関係を保って、批判的な人とも決してケンカをしないようにされていたと思う。いわば無欲無菌状態の人であった。こうして先生は虚のエネルギーを常に持っていられたのではなかろか。その結果、私たちは美人をめぐる男性たちのようにこころを奪われ、先生の虚のエネルギーに吸い込まれていたのではないか。そのけか臨床心理士はものすごい勢いで増えつつある。河合隼雄先生という虚のエネルギーの中心を失ったわれわれはどのようになるであろうか。

 河合隼雄先生の考え方の基本の一つに二律背反があった。一つの考えがあればそれと反対のもう一つの考えがある。どちらも可能性がある。不登校の子どもについて、学校は絶対行くべきだという考え方と、学校なんか行かなくてもという考え方も成り立つ。その両方を考えながら、次の可能性を求めて行くのが先生の生き方である。まさに中空構造の、対立する二つの考え方の間に立っていられた。虚のなかに先生自身も吸い込まれ、そなかで何かを求めて行こうとする発見的な姿勢が先生にはあった。虚の中に何かが生まれ出てくるのを待つこと、それには絶大なエネルギーがいるけれども、それを支え続けることが自分の専門家としての仕事である考えられていたのではなかろうか。

 私たちには中空構造の真ん中の空白に向かって立ち、虚の中に吸い込まれないで自分を保っている強い自我があるだろうか。

 強い自我とは何か。それはものごとを、人の心を感じながら、しかも客観的に冷たく見る冷徹な自我が必要だと思う。

 

 

 

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