最終更新日2017年11月14日の文章です。ホームページ用の文章だと思われますが、掲載はされていません。「吉田雅夫のフルート」のところにも書きましたが、西村先生はホスピスに移られる前に吉田雅夫についての文章を書かれたようです。その文章はその後行方不明になってしまいましたが、この文章を読むと先生が言いたかったことが伝わってくるような気もします。
専門家を育てる先生
西村洲衞男
檀渓心理相談室の近くにわらび餅で有名な和菓子屋さんがある。ここのご主人は名古屋のある有名なお店で修行されたらしい。和菓子作りの本はたくさんあるけれど、本を読んで和菓子職人になれるとは誰も思わないだろう。和菓子職人は和菓子作りの職人に弟子入りして職人となる。
臨床心理士の仕事は本当は職人的な仕事であるから師匠に弟子入りしてやり方を習うのが本当だろう。そのために教育分析がフロイトやユングの時代は行われたけれど、教育分析を受ける人は少ない。師匠と呼べる人がいなくなったからかもしれない。せいぜい偉い先生が主催する研究会に出席して、人がやった事例を聞いて学ぶくらいである。自ら事例を出して指導を受けるのは数年に一回あるかないかであろう。大学院で学んだことだけでスクールカウンセリングができると思っている人もいるのではないか。でも生き方がわからなくて深刻に悩んでいる人には物足りないだろう。
一流の職人を育てる専門家とはどういう人であろうか。私は音楽の中でもフルートが好きで、河合隼雄先生に出会う前から印象的なエピソードを耳にしていた。
戦後NHK交響楽団の指揮者として招かれたカラヤンはフルートの吉田雅夫を認めた。吉田さんはNHKからヨーロッパ留学の機会を与えられ、先ずチューリッヒのアンドレ・ジョネ教授のところに行った。ジョネ教授の家の前にHugという作曲家が書いた原楽譜を売る店があり、そこで楽譜を買って指導を受ける。ジョネ先生は一度曲を吹いてみせ、次に吉田、お前吹いてみろと言われたので、先生が吹いたように吹いた。するとジョネ先生はカンカンに怒って、辞書を持ってきて奴隷という言葉を示して、お前は奴隷だと言い、お前の芸術を示せと言われた。それで日本の龍笛のように吹いたら先生は大変喜んで、お前の解釈の方が正しいかもしれない。この曲を書いたのはハンガリーの人だから東洋の影響を受けているかもしれないと言うことだった。吉田さんはラジオの放送でジョネ教授の「五色ひわ」の演奏を紹介されたが、心が踊るような印象的な演奏を私は思い出すので、そのレコートがほしいと思う。ジョネ教授の指導が終わって別れるとき、この曲のここを私はこう吹くけれど、ドイツのハンス・レツニチェック先生はこう吹くだろう、よろしく伝えてくれと言った。お互い個性を認めているのである。専門家というのはこういうものであると吉田雅夫さんから教わった。
その後吉田雅夫先生は、フルートの現代的な奏法を確立したフランスのマルセル・モイーズの指導を受けられたが、吉田雅夫の個性的演奏は指揮者チェリビダッケに絶賛された。アンドレ・ジョネの個性教育は相当な衝撃を与えたのではなかろうか。
フルートの先生であるマルセル・モイーズもアンドレ・ジョネもフルートの奏者としては有名ではないけれど、舞台に立って聴衆を魅了するフルート奏者を育てるのである。演劇で言えば、演出家と役者のような関係である。心理臨床の世界ではスーパバイザーとスーパーバイジーの関係である。スーパービジョンを受けていない人は、人前に立つ演奏家でも無く役者にも相当しない、臨床心理士という肩書はあっても中身はただの素人に近い。
医師は資格取得後何年か医局で先輩の指導を受ける。臨床心理士にはその研修のシステムが確立していない。深刻な悩みに応えることができる経験豊かな師匠と言われる人が出てくるのはいつのことだろうか。経験豊かな年配の臨床心理士が学会に出てきて経験した事例を発表してほしいと思う。現在事例発表にあたってクライアントの許可を得なければならないので、それがネックになっているかも知れないが、カウンセリングがうまく行った事例では、大体喜んで承諾してくれる。自分たちの人生経験が学会に役に立つのがうれしいようである。事例発表の積み重ねで本当の心理臨床家が育っていく。心理臨床の専門家を育てるのは学会の聴衆だと思う。そう思って毎年学会で事例を発表するようにしている。