「夢で見る人の印象」というタイトルで保存されていた文章です。最終更新日は2018年3月15日、ブログ用に書かれた文章だと思われますが、どうも書きかけのままで掲載はされなかったようです。保存されていた文章は若干まとまりがない部分があり、最小限の手直しをして掲載します。
夢で見る人の印象
西村洲衞男
夢:南の方に広がる海で泳いでいる。岸近くにやってくると海はすごくきれいで透明度が高い。岸の岩がすごくきれいに見える。蛎殻はついていないので危なくはない。しかし、魚はいるはずだが見当たらない。陸に上がって見ると左手の方で中学生くらいの男の子たちが遊んでいる。そこへ行ってみると面白そうなので私も岩伝いに歩いてみると危なくない。やはりそこもきれいな海だった。魚影も蛎殻もなかった。
夢から覚めて、この夢は前日にあった人の印象だと思った。以前にも同じような夢を見ている。今度の人は透明度の高い穏やかな海のような清らかな心を持った人にちがいないと思う。蛎殻はないからこちらが傷つけられることはない。しかし、魚影はないから獲物はないかもしれない。左手の岩場で遊んでいる中学生たちから考えると、その人のたましいの年齢は中学生くらいと思ってよいと思う。
以前、未婚の若い女性と話をした後、カナダの山から流れる、澄み切った浅い清流の夢を見た。彼女はカナダの緩やかな平原を流れる清流のような人だったと思った。この夢を見て、人に会うとその人の印象が情景の夢として現れると考えるようになった。
教育分析の終わり頃に、見ているものそのものの輝く色合いの夢を見るようになった。その色合いは現実の色よりも生き生きと輝き、明らかに異次元の夢であった。そのような輝きのある色合いの夢を見るまでに分析が深まったのだと思った。
その頃の夢で印象的な夢があった。その夢の意味は長い間わからなかったが、あるとき名古屋交響楽団の常任指揮者だった外山雄三さんとラジオの生放送で対談したことがあった。外山さんは最後に台本から外れ、私が見た印象的な夢について訊かれた。そのときとっさに一つの夢を思い出した。
夢:竹藪があってそこに直径3~40センチのタケノコがいくつも生えている。それらのタケノコは円錐形をしており、皮の代わりに七色の同心円の模様があった。タケノコなのに上に伸びず、カラフルな同心円の模様が印象的であった。
この夢を手短に語り、これらのタケノコは私が名古屋に来て教育分析を行った人たちであろうと確信的な気持ちになり、そう説明した。
そのとき指揮者が人の内面の大切なものを引き出したことに驚いた。そして15年前に5年間の教育分析で培ったものを使い果たしたことを悟った。これからは未知の世界に一人で踏み出していかねばならないと思った。
今思うと丈の低い同心円のカラフルな模様のタケノコは私に分析を受けて育っていった人たちだった。皆男性で、分析を受けている間にビッグケースをものにし、学会で事例発表され、それらは皆先生が取り上げてコメントをしてくださった。皆晴れの舞台でカラフルなタケノコのように輝くことができ、それぞれに私よりさらに上の先生についていかれた。
A氏は素晴らしいセラピストで次々に学会で事例を発表された。A氏が就いた先生も、私はAさんに心理療法の実際を学んだと言われたことがある。その先生は10分診療で心理療法を行いながら心理療法の本を書く人であったから、心理療法の実際はA氏から学ばれたかもしれない。A氏の研究室は本や映画や演劇のビデオで埋まりまるで潜水艦の中のようであった。先生は彼に本を書けと言ったが書かなかった。何故かわからない。今振り返ると、A氏が心理療法の実際の仕事をし、それに基づいて先生が本を書いたと言えよう。
B氏は本を書く人に就いた。そして臨床心理学的なことについて教育界などで語る人になり、講師として活躍している。
C氏は私が行けなかったユング研究所に行って学んでこられ、いくつかの研究論文を大学の紀要で発表された。それはユニークなテーマで私も学ぶところがあった。
D氏は来談者の多い民間の有料相談室で仕事をしたが、資格がなくともたくさんのクライエントがいた。故郷に帰られスクールカウンセラーとなられた。誠実な方であった。
分析を受けた人たちは私の元を離れて独立していかれ、それぞれの道を歩まれ、それなりの成果を上げられたと思うが、私が40数年前に見た通りになっているような気がする。夢の予測はものすごく的確でしかも何十年も先のことを予測している。旧約聖書創世記の終わりのヨセフの物語は夢の話である。ヨセフが青年時代に見た夢が後年実現する話で、私も同じようなことを経験している。これは私がヨセフのように偉いというのではなく、人の見る夢が素晴らしいといことなのだ。そんな素晴らしい夢を誰でも見ている。しかし、夢を信じる人は少ない。それは全く儚いものだから。夢という字に人偏が就くと儚くなる。昔から人は夢を信じなかった。それは神のものだったのではないか。本当の神を信じるようなところがないと夢は通用しないのだろう。