長谷川泰子
以前エッセイに書いたラジオ番組「世界の快適音楽セレクション」を聞いていたら、ジェームス・ブラウンの曲がかかった。
私は特にこのミュージシャンについて詳しくもないし、彼の音楽を愛好している訳でもないけれど、それでもジェームス・ブラウンの曲はどれを聞いてもすぐに「あ、ジェームス・ブラウンだ」と分かる。声もリズムも何もかも、バックの金管楽器の音だって彼が演奏しているのではないのに、全てがすっかりジェームス・ブラウンで間違いようがない。金太郎飴のどこを切っても金太郎の顔が出てくるのと同じで、どの曲のどこの部分を聞いても必ずジェームス・ブラウンが現れる。こういう音楽はなかなかないのではないか。
他の誰にも真似できない強烈な個性は、音楽や絵画のような芸術の分野では必要不可欠な要素だと言えるだろうが、日常生活では持て余すことも多いように思う。誰とも異なるその人だけのものを持って生きるということは結構大変なことで、孤独な戦いを強いられる。お手本やモデルとなるようなものもなく、自分で考え自分で道を作っていくしかないからだ。自分が自分であることの苦しさを抱えながら、どうして自分は他のみんなと同じようにやれないのだろうと思うことだってあるだろう。その人だけの個性を持ち、それを発揮している人を見るとうらやましく感じることもあるが、当の本人は結構それで苦労していたりもする。
個性的、とまでいかなくても、人よりも優れているところは、場合によって厄介なところにもなる。例えば高い集中力は、物事を考えたり何かを成し遂げたりするためには必要な力だが、日常生活においてあまりに何かに集中しすぎると不都合が生じてしまう。集中しすぎて他のことが一切耳に入らず誰かが話しかけても気が付かず、「ちょっと、人の話をちゃんと聞いているの!」と怒られることもあるだろう。確か藤井聡太五冠の子供の頃のエピソードで、将棋のことを考えながら歩いていたらドブに落ちてしまった、という話があったように思うが、集中しすぎると他のことに目がいかなくなってしまう。
しかし逆のこともまた同様に言えるのであって、本人には劣っていると思えるところも見方を変えると良いところ、その人だけの個性として光るところにもなるのだ。例えば一流ブランドのファッションショーに出てくるようなモデルを見ていると、いわゆる一般的な美人というのはあまりいないように思う。でもどこかその人らしい何かがあり有無を言わせない存在感がある。堂々と前を向いて歩いてこられると圧倒されるような感じもあるのではないか。ずいぶん昔に作家の林真理子がどこかで書いていたが、彼女は自分の厚い唇がコンプレックスで、実際、化粧品を買いに行くと店員にはどうやって唇を薄く見せるかということばかりアドバイスされていたのだという。しかし雑誌の撮影のため、初めてプロのメイクアップアーティストに化粧をしてもらった時、いきなり真っ赤な口紅を塗られ、唇を大きく強調されたのだそうだ。プロからすれば唇が一番の個性で、その人の武器でもあり、そこをはっきりと示すことでその人の魅力が際立つのだから隠すなんてあり得ない、ということになる。
人より程度が大きいところは、考え方・見せ方によってプラスにもマイナスにもなる。自分のことはなかなか客観的に見られないもので、気づきにくいけれど、良いと思うところも悪いと思うところも、必ず別の見方があるはずだ。