長谷川泰子
木を見るのが好きだ。正確には、木のそばにいることが好き、と言った方がいいかもしれない。
立派な木、樹齢何百年といった大きな木ももちろん好きだけれど、その辺に生えている普通の木でも十分満足する。運転中に街路樹に目が行くことが多く、赤信号で止まった時などには幹の太さや枝葉の形をしばらくながめたりもする。小学生の時、校庭にあった大きなポプラの木が突然切られたショックを今でも覚えている。10年ぐらい前だろうか、たまたま山形のある所にJRのポスターにも使われた立派な木があることを知り、ただ木を見るためだけに東北地方を旅行したこともある。観光用の地図などを見ると、「○○の大杉」とか「△△の大イチョウ」などの表記があるが、探せば地元の人にはよく知られた大きな木があちこちにあるものだ。インターネットの情報なども頼りにして紅葉の時期にひたすら木を探して東北を北上する旅だった。北に向かうほど紅葉が進み、また土地によって木の種類も変わって、たくさんの木に出会って幸せな気持ちで帰ったような気がする。
木はただそこに立っているだけだ。何か話しかけてくれるわけでもないし、見ている側との間に明確なコミュニケーションが生じるわけでもない。しかしそこに一本の木があるのとないのでは何かがやっぱり違う。あまり意識はしないけれど、木があるということで生まれる雰囲気があるような気がする。木がある空間は、木がない空間とは確かに何かが違っていると思う。
人間でもそういう人がいるなぁと思う。何もしなくても、その人がそこにいるというだけで穏やかな雰囲気が生まれたり、あたたかい気持ちが生まれたりする。その人がいるというだけでその場の雰囲気が変わる。一緒にいる人のこころが整うようなところもあったりする。こういう人は、目に見える成果がない分、もしかしたら現実社会ではあまり評価されていないかもしれない。しかしこういう人がいるおかげで、日常がなんとなくうまく回っているのではないかとも考える。