長谷川泰子
カウンセリングの仕事がしたいと思って大学に入学し、専門課程に進んだ頃は、まだ「臨床心理士」という資格は認定が始まったばかりの頃で、社会一般には全く浸透していなかった。大学院に所属していた先輩に将来のことを聞かれ、カウンセラーになりたいと言うと(そういう学生は多かった)、決まって「カウンセラーでは食べていけない」と言われた。とにかく給料が安い、そもそも仕事を見つけるのも大変なのだという。それなりの給料を稼ぐには大学の先生になるしかないとも言われた。
学部生時代、とある精神科の病院に見学に行く機会があった。精神分析的なアプローチを積極的に取り入れ、心理士も何人か雇ってカウンセリングを積極的に行っているという、その地方では有名な病院だった。きれいで大きな建物だったのを覚えている。心理士の方々が数人ついて院内を案内してくれ、最後にいろいろと話もしてくれた。そこで給料の話になり、教えられた額の少なさにびっくりしてしまった。当時の大卒の初任給の3分の2ぐらいの額だったと思う。ひとり暮らしはとてもできない。自宅から通うか、病院の寮に入るしかない。それでもかなり苦しい生活になる。家族を養うことなどとても無理で、だからか、働いている心理士はみな女性だった。
良子先生が亡くなられた。
良子先生は、檀渓心理相談室をこの場所で開業された。開室は31年前の1992年、開業の心理相談室はごくわずかしかなかった時代だ。おそらく女性で開業する人はかなり珍しかっただろう。
臨床心理士の資格が出来上がるまでの苦労、それ以前にカウンセリング、心理相談が社会に広まるまでの苦労を昔はいろいろなところで耳にした。話を聞くなんて誰にでもできると思われカウンセリングにお金を払うということすら理解されず、例えば50分で面接を区切るのも冷たい態度と取られたり、何かあればいつでも電話などで話を聞いてくれるのが当然ではないかと思われたり、そういった受け取り方が当たり前の時代があったのだ。
私たちが今こうして臨床心理士として様々な分野で仕事ができるのも、私たちの先輩方が道を切り開き、新しい分野を整備してくれたからだと思う。心理臨床の仕事に力を注ぎ、厳しい状況でも良い結果を残してきた、先を行く多くの先輩方の努力・実践の積み重ねの上に今の私たちはある。
良子先生が亡くなられ、淋しさとともに改めて感謝の思いを強く抱く。良子先生が開かれ育ててきたこの相談室を、これからも大切な場所として守っていきたいと思っている。