長谷川泰子
時々美術館に行く。行くと必ずミュージアムショップに寄り、たいていは気に入った絵の絵葉書を買ってくる。今は連絡はたいていメールなどで済んでしまい、絵葉書を出すようなことはほとんどないが、100均などで買ってきた適当な額に入れて飾ったりしている。本物の絵を買うようなお金はないけれど、絵葉書なら気に入ったものをいくつも買える。その時の気分で飾るものをいろいろと変えることもできて手軽だ。
ただ絵葉書はどんどんたまる一方、使わないままでいるのももったいないような気もして、最近はちょっとしたメッセージカードとして使うことがある。例えば何かモノを渡す時に、ちょこちょこと何か書いて添えたりするのに絵葉書はちょうど良いサイズだ。
こういう時にどの絵葉書を使うか、手持ちのものの中から選ぶのが結構楽しい。渡す相手のことを考えたり、メッセージの内容や渡すもの、季節のことも考えたりして選んでいる。何だっていいというわけにもいかないのだ。いくら芸術的価値が高い有名な作品でも例えばムンクの叫びなどを使うのはさすがにどうかと思うし、裸婦の絵や宗教的な作品もメッセージカードとしては使いにくいだろう。それを使うことで、自分が書いたメッセージ以外の別の意味を持つことになってしまう。
絵葉書をメッセージカードとして使用する場合、そこに描かれている絵はメールなどで使用する絵文字のような機能を果たしている。言葉にしにくい、言葉にできない、あるいはあえて言葉にしない思いを伝えたり、こちらの抱いている気持ち、あるいは明確な気持ちまでにもならないようななんとなくの雰囲気をそれとなく伝えたりするところがある。
平安時代の人は和歌などを詠みそれを送りあうことで気持ちを伝えあい、コミュニケーションを取っていた。現代のメールと同じだ。源氏物語を読んでいると、文や和歌の内容に合わせて使う和紙や墨の濃さを変えてみたり、和紙に香りをつけたり、花や植物などを添えてみたりして、自分の心情を伝える工夫を様々にしていたことがうかがえる。こういう工夫や努力も楽しんでいたのではないか。
1000年たっても、自分の気持ちを伝えようとする努力は変わらない。伝えたい、分かってほしい、分かり合いたい、そんな気持ちもきっと変わらず人間が持っている根本的なものなのだろう。