長谷川泰子
映画「パーフェクトデイズ」を見た。
確か公開は昨年末あたりだったように思う。海外で映画賞を獲って話題になっていたしストーリーもおもしろそうだし見たいと思っていたのだが、なかなか映画館に行く時間がなく、そのままになっていた。ところが最近になって知人からとても良かったと勧められ、調べてみるとまだまだ上映しているようなので、時間を見つけて映画館に行ってきた。
映画を見て、この映画はトイレと木と水の映画だと思った。日本人の精神性のようなものをこの3つで表現している。監督はドイツ人のヴィム・ベンダースだが、彼がこの3つの要素に目をつけたのだろうか。それとも最後のクレジットで共同脚本や企画・プロデュースなどに日本人の名前が記されていたので、日本的な視点によるものなのだろうか。ちょっと聞いてみたいと思った。
主人公は都内の古いアパートで単身生活をしている。室内で木の苗を大切に育ている読書家で音楽を愛する人だ。仕事は都内の公衆トイレの掃除。木と本と音楽に親しむような精神性を持つ人が、トイレという排泄物に関わるところに関わる仕事をしているのが面白いと思った。
以前にもエッセイで書いたが(「腹ふくる」)、トイレはカウンセリングにとっては重要な要素だ。トイレの夢は本当に多い。前室長の西村洲衞男先生も「人生の開き直り」というエッセイでトイレについて書いている。映画には様々な実在の公衆トイレが出てくる。ユニークなトイレも多く、こんなにトイレに工夫とバリエーションがあるのは日本ぐらいではないだろうか。私たちはトイレに大きなエネルギーを注いでいるのである。
主人公はトイレ清掃を仕事にしていることもあり、トイレを掃除するシーンがとにかく多い。その仕事は職人的で、プロのこだわりが感じられる。映画には幸田文の本が出てくるのがまた興味深かった。彼女が掃除について書いたエッセイを思い出したからだ。読んだのはずいぶん昔で内容をはっきりと覚えているわけではないが、掃除に対する細かいこだわり(気遣いとも言えるかもしれない)が示されていたのはよく覚えている。華道や茶道と同様、掃除にも「作法」や「所作」というべきものがあって、そういった洗練された動きからひとつの精神世界が構成されているかのようにも感じた。それこそ、華道や茶道と同様に「掃除道」というものがあっても不思議ではないかのように思えた。
実際、私たちは掃除をひとつの作業とだけ見るのではなく、こころと関連させて語ることが多い。お寺などでは掃除もひとつの修行の一種としても扱われているように思うが、自分がいるところをきれいにすることが、内面をも磨くこと、こころを澄ますことにつながるように感じられるからだろう。最近は片付けをアドバイスすることを仕事にしている人もいるようだが、自分の内であろうと外であろうと、不要物をなくしてすっきりしたい、きれいにしたいという欲求がとても強いところがあるようだ。
トイレはお腹にたまったものを出すところだが、そのトイレにこれだけ創意工夫を凝らすということは、私たちが抱えているもの出すこと、すっきりすることをとても大事に考えているということなのかもしれない。いつでもどこでも出せるわけではない、人目にさらすこと、人に気づかれることは恥ずかしいことだからこそ、出す環境を大事にしたいと思うのだろうか。自分の中に取り入れたものの中には栄養になるものもあれば、消化しきれず吐き出したり排泄したりしなければならないものもある。取り込むときはおいしく見えたものも、吐き出す時、排泄する時は、汚いものになる。その消化しきれずお腹にたまっていたものをひっそりと水に流して私たちは生きているのだろう。