· 

丹波篠山行き

 また丹波篠山に行ってしまった。

 「行ってしまった」という言い方になるのはもうすでに5回以上も丹波篠山に行っているからで、自分でも若干呆れるような気持ちがあるからなのだ。

  車で片道3~4時間、遠いと言えば確かに遠い。コロナ明けの久しぶりの丹波篠山ではあったが、それでも何度も行っていてルートもすっかり把握している。分かっている道を走るためか、もうそれほど遠いと感じなくなってしまった。

 丹波篠山でいわゆる観光スポットと言われているようなところは、ほとんどが歩いて回れるぐらい狭いエリア内にある。すでに5回以上も行っているのであるから、大体のところはすでに何度も訪れたことがある。それでもまた行きたくなってしまうのは、この地に私の好きな和菓子がいろいろとあるからなのだが、それ以上に丹波篠山の落ち着いた雰囲気が何とも言えず良い、ということが大きい。この地特有の空気があるように思えるが、それも私がここが河合隼雄先生の出身地と思うからこそ感じられものであって、一種の思い込みかもしれない。

 秋は丹波篠山名産の有名な黒豆や栗、山の芋が出る時期、冬は名物の牡丹鍋が食べられるということで、秋冬は訪れる人の数が増えるようだが、先日行った時にはそれほど人も多くなくのんびりと歩いて回って、リラックスして帰ってきた。

 

 丹波篠山では、もう行くところは大体いつも同じである。どこをどう歩くか、どこでご飯を食べてどこでお茶をするのか、どこの店でどんな和菓子を買うのかも、ほぼ決まっている。200km以上車を走らせて毎回同じようなことをして帰る。しかし、それで十分満足感がある。安心感、と言ってもいいかもしれない。そこで何をするかが問題なのではない。行って、同じことをして、帰る。その繰り返しが、そこで何をするのか以上に意味を持つこともある。

 カウンセリングにもそういう一面がある。もちろんそこで話されること、中身が重要なのは当然のことである。そこでの話し合いが良いものになるように、臨床心理士はいろいろな努力をしているはずだ。しかし、中身だけでもない。決まったペースで行って決まった人に会い、決まった時間何かしらの話し合いをして、帰る、それを繰り返すこと、一定のパターンを続けていくこと、それだけで何か進展するものがあるとも思っている。

 

 カウンセリングに通うということは、日常生活から少し離れることでもある。日常から抜け出てあれこれ考える。定期的に非日常の世界に向かうこと、日常と非日常を行ったり来たりすること、それだけで、これまでの生活とは違った何かが生まれるのではないか。そんなふうにも考えている。

 

 

〈次へ  前へ〉