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ものの見え方

 名古屋市美術館で開催されている北川民次展を見に行った。

 北川民次は瀬戸市に住んでいたことがあり、名古屋市内のビルの壁画なども手がけたことがあるなど、この地方に縁の深い画家だ。そのため愛知に住んでいると、今回ほど大きな展覧会でなくとも、北川民次の作品を目にすることはわりとある。私は昔からなんとなくこの画家が好きで、機会があれば小さな展覧会でも積極的に見に行くようにしている。今回は生誕130年を記念した特別展ということもあって、いろいろな作品を一度に見ることができた。

 長く住んでいた瀬戸を描いた風景や、若い頃に滞在したメキシコの風景を描いた作品も多いが、今回の特別展では人物を描いたものに興味を惹かれた。北川民次は「民衆を描く」ことを一つの大きなテーマとしていたそうで、人々の働いている姿を描いた絵も多い。写真ではないし、写実的な絵とも異なる。しかし人々の生きる姿、そこに漂う力強さや物悲しさがぐいと伝わってくる感じだった。この人の描いた人物画をもっと見たいと思って帰ってきた。

 絵を描く人は無数にいる。そして人物の描き方は画家の数だけある。人間をどう見るのか、どう描くのかは、その人が人間に対してどう向き合うかによって変わるのだろう。例えば北川民次の描く人間と、ルノワールの描く人間と、浮世絵で描かれている人間は、同じ人間を描いているのに全く異なって見える。どう見てどう描くか、そこに画家の個性が示されていると言える。

 

 日常生活でも、同じものを見ても人によって見え方がまるで異なることがある。どういう印象を抱いたかも人によって大きく異なる。同じものを見ていたとしても、違う角度から違う側面を目にしていたなら見え方も変わるものだと、確かにそれはそうなのだが、それだけでもないだろう。見ている側のあり方、その時の気持ちや状態、個性などによっても、見え方がまるで異なってしまう。

 カウンセリングで話を聞いていると、例えばある人に対してはじめはものすごく批判的に話をしていたのに、あるところから急に話のトーンが変わってくることがある。「あの人も悪いところばかりではないのかもしれないけれど」などと言ったりする。別に相手が変わったわけではない、やっかいだと思ったところはやっかいなままで変わりはないのだが、見ている側のあり方が変わると相手に対する印象、見え方も変わるようだ。やっかいなところもたいしたことはないと思えたり、仕方ないと思えたり、場合によってはかわいらしいとすら思えることもある。

 

 自分をとりまく世界は大きく変わることはない、それも一つの事実だが、世界が大きく変わることだってありうる、それももうひとつの事実だ。変わらないけど変わる、変わるけれども変わらない、矛盾しているように思えるかもしれないけれど、そういうことだってある、そう思っている。

 

 

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