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気がよい

 先日、ある人から「長谷川さんは気がよい、というか、気がめぐっている感じがする」と言われた。仕事関係の知り合いではなく、またおそらく、例えば気功をやっているなど「気」に詳しい人でもないはずだ。今までそういったことを言われたことがなく、自分でも自分の「気」について考えたこともなかったが、あれこれ考えてみて、彼女が感じた「気」についてちょっと府に落ちるようなところもあった。

 先日この相談室のHPにも案内を掲載した矯正協会の研修会に講師として呼んでいただき、東京に行ってきた。今までも何度かこの会に講師として参加をしているが、毎回とても雰囲気の良い研修会で、温かく居心地の良い場が作られている。会を運営している人たちの人柄の表れだと思うし、参加者ひとりひとりの方の言葉の端々から誠実に仕事に取り組んでいる様子が伝わってきて、それが会の雰囲気を温かいものにしているとも思う。参加者の熱意に応えたい、皆に満足してもらえるような研修会にしたいと、いつもかなり気合いが入り、それなりの緊張感を持って東京に出かけていくが、参加の方々に良い影響を受けて、終わった後にはいつも大きなエネルギーをもらって帰る。こんなふうにいろいろな人との関係、出会いによって私は育てられ、かたち作られていくのだろうと考えていたところだったので、知人が感じた“気”は私だけのものではないと思った。

 自分というのは今まで関りを持った多くの人、家族や友人はもちろんのこと、今回のように研修会などで知り合った人やカウンセリングに来ている人、今も関りがある人だけでなく、もう会わなくなった人、すでにこの世を去った人など、全て含めた様々な人々の複合体だと言えるのではないだろうか。

 今まで多くの人と会って話をしていろいろな影響を受けてきた。中にはもうすでに思い出せないような古い記憶やささいな痕跡でしかないものもあるだろう。しかし、私の中にそういった人との関係から生まれたものがあるのは確かで、それがすでに私の一部となっている。誰かに会う時、そこには私の体ひとつだけがあるように見えているが、実際は今まで出会った人々を後ろに背負って私がいる。私の「気」について語った彼女との間に出てきたものを背負って私は他の人に会い、研修会での出会いによって生まれたものを背負って、また他の人にも会う。いろんな人との出会いによって生まれ育ったものを含んだひとつの複合体が私であり、そこに流れるものを、例えば「気」と呼ぶのではないだろうか。

 知人が私からよい「気」を感じたということは、これまで出会ってきた人々との間によい「気」を生むような関りを持てたということなのだろう。東京から帰ってきて、そんなことを考えた。

 

 

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