少し前に干し柿を作った。何年か前に渋柿をもらい、それならと試しに作ってみたことから始めたが、今ではすっかりこの時期の恒例行事となっている。
柿は好きだが干し柿はやや苦手で、自分で作ってもせいぜい味見程度に1~2個食べるだけだ。それなのに手間と時間がかかけて、柿の渋で手を真っ黒にしてまで作るのは、干し柿作りの作業が好きだからだろう。面倒といえば面倒だが、単純作業の繰り返し(皮をむき、消毒のために実を酒に浸し、紐に結びつけて軒下につるす)で、手を動かしながらひとつの作業に没頭して、無心でやれる。こういうのはそれなりにストレス解消になる。
知人に草取りが大好きという人がいる。真夏でも汗だくになってやっているらしい。草取りなんてあんな面倒なことと思うのだが、彼女にとっては何も考えずに没頭できるところがいいのだろう。
何でもいい、無心で没頭できてやれることがあるのはいい。他の誰かに理解や共感されなくても、自分がそのことに集中して取り組むことができれば、それだけで気持ちがすっきりするものだ。
ただ、無心で没頭できるようなことは、自分で終わらせることが難しいことがある。干し柿なら用意した分の柿をつるしてしまえば、草取りならそこにある草を取ってしまえばそれでおしまいだか、中には終わりがないものもあるのだ。例えばゲームもそのひとつだろう。アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症の問題がここに入るかも知れない。金銭的な縛りがあるはずなのだが、たがが外れて縛りが縛りと感じられなくなってしまう。没頭して無心でやっているものに自ら区切りをつけること、終わりがないことを自ら終わらせるためには、相当な自我の強さを必要とする。
依存症の問題を抱えた人には、自助会の存在が肯定的な影響を与える場合が多いようだ。自分と同じ問題を抱えた仲間とのつながりに支えられることで、困難ではあっても新しい方向性にむかって進んでいこうという気持ちが持てるようになるらしい。
人とのつながりが支えになるのは依存症の問題を抱えた人だけに限らない。自分の世界も大事だが、人と良いつながりを持つことで生の可能性を見出すことができるのではないだろうか。心理の仕事も同じだ。私たちが積極的に仲間と勉強会や研究会などの学びの機会を持とうとするのも、つながりや一体感を必要としているからで、それがあるからこそ、面接室の椅子にひとりで座ることができるのだと思う。