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存在感

 前回、東京都現代美術館で坂本龍一展を見に行った時のことを書いた。その時に見終わってからミュージアムショップでCDを買ってきた。前回も書いたとおり、今まで坂本龍一の音楽に鋭さを感じて気軽に聞けず、近寄るのが恐ろしいような思いさえあったのだが、せっかくの機会だしと思って、彼の最後のCDを購入した。

 聞いてみると、最初は若干の緊張感があったのだが、そのうち意外にリラックスしている自分を発見した。お腹に響くような音楽で、呼吸がゆっくりと安定してくる感じだ。

 このCDは彼が亡くなる1年半ほど前にスタジオで収録されたもので、「ピアノ・ソロコンサート」録音という形式になっており、その時の映像はドキュメンタリー映画として公開されたようだ。実際に観客がいたわけではないが、「コンサート」のライブ録音らしく、身動きの音や演奏時の息遣いなども聞こえてくる。それがとても生々しく、そこに人がいること、確かにそこに生きていることが感じ取れるような録音だ。

 通常の音楽CDであれば、ベストな演奏を聞かせるために何度も撮り直しをするものであろう。良いところだけをつなぎ合わせて1曲に仕立てるようなことも珍しくはないようだ。先日、クラッシックのラジオ番組であるピアニストの特集を聞いていたら、つなぎ合わせをしないで一曲通して録音することにこだわった演奏家だと紹介していた。わざわざそう言うということは、ライブ録音ではないものはつなぎ合わせが頻繁に行われているということなのだろう。身動きの音や息遣いなどは雑音とみなされて消し去られ、純粋な音だけが記録される。それはそれでよい演奏、よい音楽を追求したものであって重要な録音だ。しかし、ライブ録音のように純粋でも完璧ではない演奏、例えば時に失敗があったり、雑音が入り込んだりした演奏は、かえってその人の存在感を強く意識させるところがあるような気がする。

 グレン・グールドの演奏するバッハの平均律で、彼のハミング(鼻歌、と言った方がいいのかもしれない)もしっかりと録音されているものを聞いたことがある(グレン・グールドは有名なピアニストで熱狂的なファンも多いが、ハミングなしでは演奏できないピアニストとしても有名)。純粋に彼のピアノを聞こうとすれば、ハミングが邪魔だ、ということになるのだろうが、ハミングを聞いていると彼の高揚感のようなものがリアルに伝わってくるところもあり、ハミングあってこそのグレン・グールドとも言える。大げさかもしれないが、彼のハミングにこそ、彼の人生が表現されているとも言えるだろう。

 純粋で完全なものは美しく、余計なものが入り込まないのもあって分かりやすい。失敗や雑音は無駄なもの、余計なもので、不完全さを示すものかもしれないが、むしろそこにその人らしさが現れているように思う。純粋で完全なものは神の領域にあるもので、人間らしさがなく、その分、均一で個性が無くなってしまうのかもしれない。人は不完全さに苦しむのかもしれないが、そこをどのように抱えていくかにその人らしさが現れるのかもしれない。

 

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